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トヨタ・2000GT

トヨタ・2000GT

ヤマハ発動機が開発及び生産、トヨタ自動車が販売した1967年から1970年までハンドメイド生産した高級自動車である。

日本のモータリゼーションの発展途上期において、自社の技術力を国内外にアピールすべく、ヤマハ発動機の技術とマテリアルに着目して、トヨタが協同開発した高性能スポーツカーであり、本格的な「グランド・ツーリングカー」としては日本最初の存在と考えられている。

1960年代の日本製自動車としては異例の高度なメカニズムと流麗なデザインを兼ね備えた画期的存在であり、性能面でも世界水準に達したことで、日本車の歴史上、一種の記念碑と言える伝説的な名車である。

同時期、オートバイメーカーとして既に日本を代表する存在となっていたヤマハ発動機は、日産自動車と提携してクローズド・ボディの高性能スポーツカーの開発を目論み、試作車も作られたと言われているが、この計画は途中で頓挫してる。

そこでこの企画は改めてトヨタに持ちかけられ、イメージリーダーとなるスポーツカーの必要性を認識していたトヨタ側もこれに応諾し、プロジェクトリーダーの河野二郎、デザイン担当の野崎喩、エンジン担当の高木英匡、シャシーと全体レイアウト担当の山崎進一の4人を中心に1964年から開発が開始された。

翌1965年1月、トヨタ側の関係者がヤマハ発動機に出向。

ヤマハのエンジニアと共に詳細設計を行い、4月末に設計図が完成。

計画開始から僅か10ヶ月後の8月に試作車の第1号車が完成し、トヨタに送られた。

そして実際の生産もヤマハ発動機に委託され、鈑金・溶接・車体組立・エンジン組立・塗装の工程は、ヤマハ発動機が磐田市に新設した9号館工場で手作業によって行われ、FRPパーツ類は新居工場が製造し、内装パネル関係は日本楽器製造株式会社、ボディのプレス関係は50年代にバイクメーカーとして活躍しヤマハの傘下に入った北川自動車工業株式会社(後のヤマハ車体工業、1993年4月にヤマハ発動機に吸収合併)が担当した。

このような経緯から、(しばしば前後に、自社技術のアピールを目的として2000GTを市販したトヨタへの侮蔑的言辞を伴って)「トヨタは2000GTの自力開発ができず、ヤマハが開発・生産したスポーツカーを買い取っていたに過ぎない」「これは実際には『ヤマハ2000GT』というべきものである」とする辛辣な評も流布している。

両社の開発分担が厳密にはどのようなものだったのかについては諸説あるものの、2000GTの開発・生産にヤマハが著しく寄与したことは事実と言え、ヤマハ発動機側は2000GTの開発についての言及で「ヤマハの技術供与」という表現を用いている。

ヤマハ発動機は戦時中に航空機用の可変ピッチプロペラの装置を製造していた機械類を活用するため、モーターサイクルへの参入し、あわせて四輪自動車の研究もしており、そのため、トヨタ製の量産エンジンを改良してDOHCエンジンを製作する結果を得た。

また、楽器メーカーが前身で材料となる良質木材の取り扱いに長けていたことを活かし、インストルメントパネルとステアリング(ともにローズウッド製)の材料供給・加工までも担当した。

当時のトヨタは、DOHCのノウハウも本木目内装の経験も乏しかったのである。

当時の2000GTの価格は238万円で、トヨタの高級車であるクラウンが2台、大衆車のカローラが6台買える程に高価であった。

1967年の日本における大卒者の初任給がおおむね26,000円前後であり、21世紀初頭における1,500万円から2,000万円程度の感覚にも相当する、一般の人々にとっては想像を絶する超高額車であった。

それでも生産に手間がかかり過ぎてコスト面で引き合わない価格設定であり、全生産期間を通じて常に赤字計上での販売であった。

トヨタにとっては「高価な広告費」とも言うべきものであった。

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